稲庭うどんの発祥・由来②
稲庭うどんの発祥・由来についてご紹介する第2回目です。
昨日の記事をご覧いただいていない方は是非こちらからどうぞ!
長い伝統を誇る稲庭うどんは、稲庭地区小沢に住んでいた佐藤市兵衛が地元産の小麦粉を使って干しうどんを作ったのが始まりとされ、その製法は1665年(寛文5年)には確立されていたといわれています。
遠い昔、大陸から伝わったうどん作りの文化は西日本に定着していました。
それが、何故、遠い北国の稲庭にうどん作りの製法が伝わったのか。。。
定かではありませんが、私が知るところ3つの説があります。
今日は、2つ目の説をご紹介。
『佐竹義宣候が常陸の国から持ち込んだ』説
1600年、関ヶ原の戦いで曖昧な態度をとった常陸の国・佐竹氏の19代当主「佐竹義宣(さたけよしのぶ)」は、徳川家康より久保田藩(秋田藩・現在の秋田市)への国替えの命を受けました。
1602年、石高不明と先行き不安の中、最小限の家臣と共に秋田に下向しました。
その時に、うどん作りの技術が持ち込まれたといわれています。
稲庭うどんの製法が確立したのが1665年。
それから約100年後の1752年、稲庭うどんは秋田藩主・佐竹候の御用達になりました。
時系列として、つじつまが合います。
そうかもしれない・・・。
余談ですが、昨日の北前船説でも登場した佐竹候は、秋田県内の河川を利用して特産品の移出をし、積極的な国づくりを行ったお殿様だったようです。
もし、この説が正解であるならば、秋田県民として「うどん作りの技術を持ち込んでくれたこと・経済の発展に貢献してくれたこと」の2つに感謝しなければいけません。
以上が2つ目の説です。
明日は、第3の説をご紹介します。
引き続き、ご覧ください。
(イラストが貧弱ですみません!常陸の国のお殿様ですから「最小限の家臣」といえども、もっと華やかだったことでしょう)