稲庭うどんの発祥・由来【まとめ】
2/1よりお伝えしてきた「稲庭うどんの発祥・由来」、今日は【まとめ】編をお伝えします。
まだ、読んでいらっしゃない方は是非こちらからどうぞ。
長い伝統を誇る稲庭うどんは、稲庭地区小沢に住んでいた佐藤市兵衛が地元産の小麦粉を使って干しうどんを作ったのが始まりとされ、その製法は1665年(寛文5年)には確立されていたといわれています。
遠い昔、大陸から伝わったうどん作りの文化は西日本に定着していました。
それが、何故、遠い北国の稲庭にうどん作りの製法が伝わったのか。。。
説は3つ。
①『北前船によって三輪素麺(注1)の技術が伝えられた』
②『佐竹義宣(さたけよしのぶ)が常陸の国から持ち込んだ』
③『秋田と仙台を結ぶ街道筋にあたる白石温麺の技術が伝わった』
どれが正解なのか。
それぞれの説の背景や文化的なことを調べると、どれも「無きにしも非ず」と思えます。
いずれにしても、情報網が発達していない昔に、先人が知恵を絞り工夫を重ね、稲庭うどんの製法を確立したことに敬意を払わずにはいられません。
今は日本各地にそれぞれうどんの産地があり、違った美味しさがあります。
めんの形状が違ったり、製法にこだわりがあったり、その土地を訪れて食べて気づく美味しさもあるものです。
余談ですが、北前船によって、「北海道の昆布」と「土佐のかつお節」が大阪で出会い、日本のダシ文化は生まれたんだそうです。
おダシはうどんを料理するときの「基本の基」、切り離すことのできない取合せです。
時代の流れと共に、地方の伝統や文化が交流・融合し合い、今となっては豊富なバリエーションで「稲庭うどん」を楽しめるようになっています。
そう考えると、稲庭うどんの発祥・由来には諸説あれども、史実上「点」であったことが長い歴史のなかで「線」となり、それぞれが「結びついている」ということもあるのかもしれません。
4日間にわたる長いテーマにお付き合いくださいまして、ありとうございました。
(注1)長崎県・五島うどん説もあります。