稲庭うどんの発祥・由来①
今週はお勉強ウイーク。
本日より3回にわたってご紹介します。
長い伝統を誇る稲庭うどんは、稲庭地区小沢に住んでいた佐藤市兵衛が地元産の小麦粉を使って干しうどんを作ったのが始まりとされ、その製法は1665年(寛文5年)には確立されていたといわれています。
遠い昔、大陸から伝わったうどん作りの文化は西日本に定着していました。
それが、何故、遠い北国の稲庭にうどん作りの製法が伝わったのか。。。
定かではありませんが、私が知るところ3つの説があります。
今日は、1つ目の説をご紹介。
『北前船によって三輪素麺の技術が伝えられた』説
北前船とは、江戸から明治時代に、大阪と蝦夷(北海道)を往来していた船のことです。
北前船は、船の名前や形ではなく、日本海沿岸の航路を渡る船のことをいいます。
その港数は大小100以上あったというから驚きです。
大阪から北へ向かうときは、塩・酢・鉄・薬・反物など生活物資を積んで北上し、蝦夷から帰るときには、昆布・鰊・鮭・鱈などの海産物を運んでいました。
現代で例えるならば、北前船は「総合商社」。
秋田県には、能代・土崎・本荘・金浦・戸賀の5つの寄港先がありました。
このなかの本荘港を経由して三輪素麺(※注1)の技術が稲庭に伝えられたと言われています。
三輪素麺も手延べ麺ですので、確かに似ているかも・・・。
「富山県・氷見うどん」も北前船がもたらしたといわれていることから、やっぱり稲庭うどんもそうなのかも。。。
余談ですが、北前船は様々な文献に登場し、秋田藩主・佐竹候の尽力によって、秋田杉・米・大豆など特産品の移出港として土崎が栄えたという記録も残っているそうです。
北前船は日本海側に位置する多くの県の経済・文化の発展に寄与していて奥が深く興味深いです。
明日は第2の説をご紹介します。
引き続き、ご覧ください。
(※注1)長崎県の五島うどん説もあるようです。